ちくごの賢人紹介(けんじんしょうかい)

久富用水をつくった中島安平(なかしまやすへい)

kids_kenjin09.JPG 稲を植え育てている広さでは、県内で9番目の筑後市。

この広い範囲(はんい)で稲を育てられるのは、筑後市の豊かな水のおかげです。しかし、その水を得るためにいのちをかけて用水路(ようすいろ)を工事した人が約300年前にいたことを知っていますか?

 

 その人の名は、中島安平(なかしまやすへい)。 

 むかしは水が足りなくて大変だった久富地区に水を引くため、山の井川が流れる徳久地区から幅約2メートル、長さ約3キロにわたって用水路をつくりました。 

 

 何とか村の人のためにと心を決めた安平は、用水路の計画づくりのため、自分の足で歩いてしらべて、徳久地区から羽犬塚(はいぬづか)地区にかけて用水路を通すことにしました。

 

kids_kenjin01.jpg 苦労をかさねてきちんとした計画書を作った安平は、久留米藩主(くるめはんしゅ)に工事をお願いしますが、許してもらえませんでした。その後また2度目のお願いをしてみましたが、こんどはその工事にかかわる数十ヵ所の村の人たちの反対にもあい、またもや失敗。さらに世間をさわがせた罪で、安平はろうやに入れられてしまいます。しかし安平の気持ちは変わらず、ろうやを出たあと3度目のお願いをして、その願いがかなうようにと3週間熊野神社にこもりました。

 

 その努力のかいあって、ついに工事をしてよいことになりました。しかしそれは「完成しなかったら命はない」という、厳しい条件がついたお許しでした。

 

 工事が始まっても、困ったことがたくさん出てきて、安平は苦しめられました。しかし、自分のお金を使ってでも用水路を作りあげようとする安平の強い気持ちがついに形となり、計画から約30年後に久富用水はできあがりました。

 

kids_kenjin11.jpg 現在もこのあたりでただひとつの用水路として約50ヘクタールの農地にたくさんの水を運んでいる久富用水。土地の人たちからすばらしい人だという親しみをこめて「いでみぞ爺さん」と呼ばれる安平は、その仕事ぶりをほめたたえられ、農業の神様としてまつられています。


出展:『筑後市史』第3巻、筑後水利功労の人々(右田 乙次郎著)を基にして作成。                      

一生をかけて虫の害をしらべた益田素平(ますだそへい)

kids_kenjin12.jpg 実りの秋。

 農家の人たちの努力と、農業の技術(ぎじゅつ)がすすんだおかげで、お米が少ししかできないということは近ごろでは少なくなりました。しかし、江戸時代の中期から明治時代の初期のころの筑後地方では、虫の害がひどく、多い所ではとれたお米の半分近くが「穂枯れ」(ほがれ)と呼ばれる虫の害にかかり、農家の人たちを悩ませていました。そのころの農業は、天気や言い伝えなどにたよってばかりで、害虫(がいちゅう)のことはよく知られていなかったのです。

 

 そんな農民たちの悩みをなんとかしようと立ち上がったのが、益田素平(ますだそへい)でした。

 

 彼は20歳のころから稲作に害を与えている「めい虫」(ガの一種)について、ていねいに調べ始めます。そして34歳の時、「めい虫」が年に3回成長することや、幼虫が稲のくきで冬を越すことなど、くわしいことをつきとめます。そして彼は、「冬の間に稲の切り株を掘り起こして焼く」という「めい虫」を追いはらう方法を考え、国や県、また農民たちに熱心に教えてまわりました。その結果、明治11年、彼の考えた方法は県に正式に認められ、その方法を広めるための第一歩をふみ出したのです。

 

kids_kenjin02.jpg しかしこの方法が、農民たちにすぐにみとめてもらえたわけではありません。なぜなら、県のおしつけるような教え方や、仕事をする時に手間がふえることに対するいやな気持ちがあったからです。そんな農民たちの気持ちはだんだんと高まり、そのうち素平にも向けられ始めました。そしてついに、約3,000人もの農民が、そのやり方をやめてほしいと言い出し、おまわりさんたちとけんかを始め、大きなそうどうになりました。

 

 このさわぎは、約1週間続きました。しかし、素平は、さわぎの間も家にこもり「農村を救うためならば、自分の身がどうなっても、また、どんな危ないことや困ったことがあってもかまわない」と逃げもせず、あばれる人が来た時には説得(せっとく)するつもりであったといわれています。 幸い、彼の身には何も起きないままさわぎはおさまりました。そして、このさわぎをきっかけに、彼の考えた虫を追いはらう方法はどんどん広まっていったのです。

 

kids_kenjin08.jpg 彼はその後も、農民たちの仕事を少しでも楽にするために「めい虫」研究を続け、52歳のとき、その考えをまとめた「稲虫実験録 ( いねむしじっけんろく )」という本を出しました。彼の仕事ぶりは大日本農会(だいにほんのうかい)をはじめ、色々な所からほめられて、その虫を追いはらう方法はお米作りには欠かせないものとして、戦争が終わった後に農薬が広まるまで続けられました。

 

 素平(そへい)は61歳でなくなりましたが、毎年10月には、JAふくおか八女筑後地区センターに建てられた素平(そへい)の像の前で、その仕事ぶりをほめたたえる気持ちをこめて、顕彰祭(けんしょうさい)が開かれています。              

 

出典:筑後市史第2巻を基に作成。

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