小さな博物館 戦時資料展〜終戦から80年〜
サンコアロビーで展示する小さな博物館では、市民の方より市に寄贈していただいた戦時資料を紹介しています。
【と き】7月17日(木)〜8月20日(水)
【ところ】サンコアロビー
【観覧料】無料
戦時資料展〜終戦から80年〜
軍は太平洋戦争の開戦と同時に全国の新聞社に対し「大本営の許可したるもの以外は一切掲載禁止」「我が軍に不利なる事情は一般に掲載を禁ず」という通達を行いました。
新聞は新聞紙法に基づき検閲を受け、軍事に支障を及ぼしたり皇室の尊厳を冒したりする記事だと判断されると、罰金や販売禁止が科せられるおそれがありました。そのため、記事には日本に有利な情報しか掲載されなくなっていきます。
戦況を伝える新聞
昭和17年7月8日【福岡日日新聞】
太平洋戦争開戦日である昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊とその基地に対して攻撃を行い、甚大な被害を与えた。その際に、自爆攻撃を行った3名に対して二階級特進の発表の記事。
昭和17年7月14日【福岡日日新聞】
茨城県にある春日浦海軍航空隊、土浦海軍航空隊の訓練を昭和天皇が視察した記事。
「海鷲」とは、旧日本海軍の航空隊やパイロットをさし、「陸鷲」は、旧日本陸軍の航空隊、パイロットをさす。
昭和19年10月29日【西日本新聞】
関行男大尉以下4名が初めて神風特別攻撃隊として出撃したことを海軍が公表した記事。
新聞には「しんぷう」ではなく「かみかぜ(カミカゼ)」とルビが打たれている。
昭和19年11月1日【西日本新聞】
神風特別攻撃隊の戦果を報告する記事。
航空機による特攻が始まった当初は、アメリカ軍に大きな損害を与えたが、後にレーダーを使用した監視や対空砲火が強化され、その多くが撃墜された。搭乗員のほとんどが若者で、陸海軍でおよそ6,000人が亡くなった。
戦時中の生活の記事
昭和18年12月23日【西日本新聞】
「野草を食って米供出」
戦時下の食糧難、人々は野草を食料として利用した。芋のツルや種など様々な野草が食卓に列び、また米に雑穀や根菜を混ぜて炊いた、混ぜご飯が日常だった。
昭和20年1月2日【西日本新聞】
「元旦を向上で迎へて翼づくり」
福岡市にあった「九州飛行機」の工場が元旦から稼働しているという記事。
軍需品生産の人手不足を補うため学生や生徒が動員された(学徒動員)。
実際の展示では、戦時中の新聞を展示し、当時の情報規制がどのようなものだったかより詳しく解説しています。
ぜひサンコアに足を運んでご覧ください。
このページの作成担当
筑後市郷土資料館(社会教育課)
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