農業の先覚者益田素平

更新日 2013年02月26日

農業の先覚者益田素平

 実りの秋。稲作農家の努力と農業技術の進歩によって、極端な不作に見舞われることは珍しくなった昨今ですが、江戸時代中期から明治時代初期のころまで、筑後地方は虫害が多発し、多い所では収穫の4割が「穂枯れ」と呼ばれる虫害に悩まされていました。しかし当時の農業は、天候や迷信に頼るところが大きく、害虫の生態もよく分かっていませんでした。

 そんな農民たちの悩みを、なんとかしようと立ち上がったのが、益田素平でした。彼は天保14(1843)年、庄屋の息子として上妻郡江口村に生まれ、20歳のころから稲作に害を与えている「めい虫」(ガの一種)について、たんねんに調べ始めました。そして34歳のとき「めい虫」が年に3回羽化することや、幼虫が稲のくきで越冬することなど、詳しい生態をつきとめます。そして彼は、冬の間に稲の切り株を掘り起こして焼却する「めい虫」の駆除方法を考案し国や県、また農民たちに熱心に説いてまわりました。その結果明治11年、彼の考えた駆除方法は県に正式に認められ、普及への第一歩を踏み出しました。

 しかしこの駆除方法は、県の強制的な指導に対する反発や、農作業の手間が増えることへの反感から、農民たちにすんなりとは受け入れられませんでした。農民たちの不満は徐々に高まり、批判の矛先が彼に向けられ始めると、ついに約3,000人もの農民が、駆除方法の撤回を求めて警官隊と衝突する事態となってしまいます。明治13年に起きた「筑後稲株騒動」と呼ばれるこの事件は、約1週間続き、800人もの逮捕者が出る大事件となりました。しかし、渦中の人となった彼は、事件の間も自宅にとどまり「農村救済のためならば、一身を犠牲にしてでも、いかなる危難にあっても本望」と言って逃げもせず、暴徒が来たときには説得するつもりであったといわれています。幸い、彼の身には何も起きないまま事件は解決。皮肉にも、この事件をきっかけに、彼の考えた駆除方法は急速に普及していったのです。

 彼はその後も、農民たちの負担を軽くするために「めい虫」研究を続け、52歳のとき、集大成ともいうべき「稲虫実験録」を発刊。彼の功績は大日本農会をはじめ、各界から高い評価を受け、彼の考えた駆除方法は以後稲作には欠かせない耕作法として、戦後農薬が普及するまで続けられました。彼は61歳でこの世を去りましたが、その功績を称え、毎年10月には、JAふくおか八女筑後地区センターに建てられた胸像の前で顕彰祭が開かれています。

出典:筑後市史第2巻
  • 所在地:(高江地区)

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